指導者の声開く
アーティストインタビュー “青柳 晋”
ピアニスト 青柳 晋さん インタビュー
東京芸大の准教授に学外出身者として就任して話題となった青柳晋さんは、リストやショパンを中核レパートリーにすえながら、独自の歩みを続けているピアニストです。闘うピアニストなのかと思いきや、明るい笑顔と気取らない語り口に、温かいお人柄がうかがえました。
日本の子どもはバリバリ弾く

- ソリストとして活躍しながら、東京芸大の准教授として後進の指導にも力を入れている青柳さん。準教授に就任した時には話題になりましたね。
- 本当にたまたまなんですが、ベルリンから帰国した時に、芸大で第1回目の准教授の公募が行われていたんですよ。私は現役のピアニストを教師に迎えようという方針にうまくはまったんですね。以後、学外出身者の先生方も増え、素晴らしい演奏家が集まっているので、それだけでも刺激になっています。
- 海外生活の長い青柳さんですが、そもそもニカラグアのお生まれなんですね。
- 父が商社に務めていた関係で。ニカラグアで生まれて、半年ほどでアメリカのダラスに引越し、ここで小学3年まで暮らしました。
- ピアノもアメリカで習い始めたのですか。
- 母は趣味でピアノを弾いていて、父との結婚の条件が、家にピアノを置く、ということだったとか。それで5歳上の姉がまずピアノを習い始めましたが、それを聴いていて同じように弾いたので、私も習い始めるようになったそうです。最初に習ったのは、ご自身で独自のメソッドを作って出版している先生でした。その先生が引退なさり、往年の巨匠リリー・クラウスのアシスタントを務めた方に習いました。読譜が早かったようで、学校ではよくソロや伴奏を弾いていましたね。
- 日本に移ったのは、小学4年ですね。
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父が単身赴任で香港に行くことになり、母と3人で帰国することになりました。日本でのピアノ・レッスンはアメリカとはまったく違う雰囲気で驚きました。ちょうどツェルニーを弾くタイミングだったのですが、日本ではみんながバリバリと弾きこなしていました。私は自分の思うように自由に弾いていましたから、先生には「あなたは指ができていませんね」と言われました。これは今だから言えることかもしれませんが、子ども時代のうちに十六分音符を正確に弾けるように、厳しくしっかりと練習しておくことも大切だなと思います。
- ピアニストになろうとはいつ頃から思っていたんですか。
- ピアノを習い始めてから、漠然と思っていました。でも両親はやはり違うように考えていたようで、桐朋学園高校を受けた時には「落ちたらピアノは趣味で」という約束をさせられました。ですから、入学してからはますますピアノにのめり込んでいきました。桐朋は学科の先生方がみなさん非常に優秀で、もうちょっと真面目に授業を受けておけばよかったと、今さらながら反省しています。それはともかく、ピアノだけではない、たくさんの音楽仲間ができたのは大きな収穫です。
プロ意識を育んだベルリン

- 桐朋学園大学に進学してすぐに、ベルリンに留学しましたね。
- ずっと前から機会があれば留学したいと思っていたんです。ある時、クラウス・ヘルヴィッヒというピアニストを知り、師事したいと思うようになりました。それで自分の演奏を録音し、手紙を書いてお渡ししました。すぐに返事をいただき、ベルリンに来なさいとおっしゃってくださり、留学が実現したんです。ちょうど東西ドイツが統合する時で、ベルリンの壁が壊されるのを現地で間近に見ました。
- ドイツの伝統を受け継ぐヘルヴィッヒさんは、どんな先生だったのでしょうか。
- 面白いことに、フランス音楽に造詣が深く演奏も素晴らしいんですよ。後に師事したフランス人のパスカル・ドゥヴォワイヨンさんからは、ベートーヴェンの魅力を教わりました。2人とも厳しい先生で、普段のレッスンでは絶対に生徒をほめないんです。2年に1回くらいほめてくださると、それは泣けるほど嬉しいんです。
- ベルリンには10年ほどいらしたんですね。
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私にとって第2の故郷となりました。帰国してからはずっと日本が拠点ですが、ベルリンに「帰る」とほっとするんですよ。ベルリンはアメリカ、イギリス、フランスの管轄だったこともあるのでしょう、ざまざまな文化が存在していて、人種も多様。リサイタルやオーケストラのコンサート、オペラにバレエと、世界最高のものが上演されていて、すごく刺激的ですし、技術的にも精神的にも確立していない若い時期をベルリンで過ごしたことで、プロとしての意識を育むことができたと思います。
- 数々のコンクールに入賞、優勝し、ベルリンを拠点に活動を初めていたんですね。
- 演奏会という期日に向けて完璧に仕上げていくということ、そして演奏会を支えてくれるたくさんの方々がいてこそ、自分がステージに立つことができるということ。コンクールを経験したことでも、自分を鍛えることができたと思います。コンクールは予選から本選に向けて課題がどんどん難しくなっていきます。さらに毎回の演奏ごとに結果が出されます。究極の受け身の状態の中で、マゾヒスティックとも言える試練を乗り越えないと、勝ち残れない世界です。
アイデンティティは日本にある

- ヨーロッパでも活動を始めていたのに、帰国なさいましたね。
- 自分のアイデンティティが日本人であることに気付いたんです。言葉が流暢になればなるほど、ドイツをはじめヨーロッパの人たちとの根本的な違いを感じるようになりました。何か議論をする時に、ヨーロッパではまず相手を否定しながら自分の理論を立ち上げます。日本では相手を肯定しながら議論を進めていきますよね。ベートーヴェンの音楽はとても象徴的で、1曲のソナタでも前の楽章を否定したところで次の楽章が成り立ち、さらに大きな世界を構築しようとしています。
- 日本的アイデンティティから、ヨーロッパ音楽に立ち向かうのは大変な作業ですね。
- そうでもないんですよ。役者と同じ。自分に近い役柄だから成功するとは限らない。むしろ自分にないものだからこそ、客観的に研究し努力して近付き、あるいは付き離すことでより大きな世界を表現できることもある。
- 帰国していかがでしたか。
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帰ってきて良かったと思いました。日本には日本人演奏家を迎え入れてくれるマーケットもありました。自分の居場所があるという感じです。
- すぐに華々しくアルバム・デビュー。リサイタルも継続的に開いていますね。
- バックアップしてくださる事務所のお陰でもあります。実は、最初のアルバムは青山音楽賞の賞金で作ったんですよ。録音は自分のピアニストとしての方向性をアピールするための重要な手段だと思っています。もちろん、日々勉強し積み重ねてきた足跡を残すものでもある。
- 得意のリストやショパンなど有名作曲家だけでなく、ジョン・フィールドというあまり知られていない作曲家をも取り上げています。
- フィールドは、古典派とロマン派の橋渡しをした人なんですよ。私も偶然に出会って、ロマン派に偏っていた私のレパートリーが、古典派にも手が届くようになりました。ショパンを得意とおっしゃってくださってありがたいのですが、実は最新アルバムの「24の練習曲」は自分にとって「苦い薬」でした。
- どういう意味でしょうか。
- 先輩たちが技術の衰えを実感しているという話を聞き、そろそろ40歳になろうかという私も意識し始めています。24曲のうちの多くは弾いてきていますが、中には人前で弾いたことのない曲もありましたし、とにかく自分のテクニックを洗い直さなければ臨めないと痛感したんです。苦い薬を飲み続けるように、それは苦しい作業でしたが、その薬効は確かにあったと実感しています。
- 現在、東京芸大で生徒さんを教えることは、薬を処方する感じでしょうか。
- むしろ自分に役立っていると思っています。客観的に演奏を分析すること、自分では弾かないレパートリーをもきちんと勉強すること、それでいながら自分の演奏家である部分を揺るがせないようにすること。でも実際には、自分の子どもを育てているような感覚です。上京して一人暮らしをしながら勉強している子には親のように心配したり、手塩にかけて育てた子が演奏会で立派に弾くのを見ると、感極まって泣いてしまったり。確かに拘束される時間はありますが、後進を指導することは自分の運命というか、使命なのだと思っています。
青柳 晋

商社マンだった父の赴任先のニカラグアで1969年に生まれる。アメリカに移り5歳でピアノを始める。9歳でオーケストラ・デビュー。日本に帰国後、小学6年生の時、全日本学生音楽コンクールで優勝。桐朋学園大学からベルリン芸術大学に留学。ロン=ティボー・コンクールに入賞後、ヨーロッパとアメリカで活動を始める。ハエン・コンクール、アルフレード=カセッラ・コンクール、ポリーノ・コンクールで優勝。1997年頃より日本でも演奏活動を開始。意欲的なリサイタルのほか、オーケストラとの共演も多い。リリースした6枚のアルバムはどれも高い評価を受けている。現在、東京芸術大学准教授。