指導者の声開く
アーティストインタビュー “安達 朋博”
ピアニスト 安達 朋博さん インタビュー
2007年に日本デビューしてから、にわかに注目を集めている安達朋博さん。TV番組「たけしの誰でもピカソ」への出演で、認知度も高まったようです。すでに自分の個性を持ち、それに磨きをかけている彼。日本の高校からクロアチアに留学したというユニークな経歴も、彼の個性を際立たせているようです。
テクニックは未熟だがセンスがある
- クロアチア国立大学を卒業して、そのまま現地を拠点にしているんですね。
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今、大学院の研究科に在学中なんですよ。クロアチアと言っても日本人にはピンと来ませんよね。アドリア海に囲まれたイストリア半島に住んでいます。三方を紺碧の海に、残りを緑の豊かな山に囲まれた、本当に美しい場所。自然の中で暮らすということが、こんなにも心を落ち着かせるものだということを、日々実感しています。近いとは言えませんが、ウィーンにも電車で行ったりしています。
- 出身は京都なんですね。
- 京都府ということで、京都市内ではないんですよ。家庭もごく普通で、母が好きなジャズやクラシックを聴いていた程度です。小学校1年の時にクリスマス・プレゼントでキーボードをもらい、それで楽しく遊んでいたのをよく覚えてます。そんな姿を見ていた母がヤマハの教室に申し込んでくれて、小学校2年から個人レッスンでピアノを始めました。それから1か月くらいしたら祖母がアップライト・ピアノを買ってくれました。レッスンはバイエルから始まるごく普通のものでしたが、レッスンに行く度に新しい曲に出合えたりして楽しかった。練習するのも好きでした。
- いつごろから音楽家を目指そうと思ったんですか。
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中学3年の時に、将来は音楽に関わった仕事がしたいなと漠然と思い始めました。それまでのピアノはまったくの趣味の領域でした。高校に入ってからは、一般の大学の音楽科を受けて、音楽の先生になれたらと具体的に考えるようになりました。それで地元では指導力のあることで知られる先生を紹介していただきました。
- 音楽家への道が見えてきたんですね。
- その先生に、腕試しと音楽界の雰囲気を知るいい機会でもあるからと、堺国際コンクールを勧められて出たんですが、参加者がみんなすごく上手で圧倒されてしまいました。入賞するはずがないと思ったので、発表も見ずに帰ったんですよ。そうしたら後から知らせが来て3位入賞だと。不思議に思っていたら「テクニックは未熟だが、音楽的なセンスが光っている」と評価してくださった。このことで、もっと本格的にピアノを勉強しようと思うようになりました。
名手ザラフィアンツとの出会い
- 高校を卒業してすぐに留学を決めたんですね。クロアチアを選んだのはなぜですか。
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超絶技巧と確かな音楽性を持ったピアニストのエフゲニー・ザラフィアンツさんに師事するためだったんです。堺国際コンクールを受ける直前でしたが、来日して公開レッスンをされているザラフィアンツ先生に出会いました。それもたまたま、実家から程近い場所で公開レッスンが行われたんです。当時習っていた先生が申し込んでくださっていて、実は僕はよくわからずにレッスンを受け、それが良かったのかどうかもよくわかりませんでした。先生にはコンクールでの評価と同様に「テクニック不足だがタレント(才能)はある」と言われました。もし師事するならザラフィアンツさんがいいと周囲にも言われるようになりました。でも、心のどこかでは普通に一般の大学を受験して、音楽の先生を目指した方がいいのではないか、とも思ってました。何にせよ、当時の自分は世界の音楽界のことなど何も知りませんでしたから、周囲に勧められるままに留学しちゃったという感じではあります。
- 内戦からそんなに月日の経っていないクロアチアに行くことについての不安はありませんでしたか。
- 母はそれを心配してましたね。僕にとっては初めて行く外国がクロアチアで、国の状況も良く知りませんでしたから、とにかく行ってみないとわからなかったわけです。確かに地雷がまだ埋まったままの地域などはあるようですが、取り敢えずアスファルトの上を歩いていれば大丈夫だし、日常生活に困ることもありませんでした。
- 言葉の問題はなかったんですか?
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クロアチアは英語教育が取り入れられているので、僕も英語からスタートでした。ザラフィアンツ先生が勤めていたミルコヴィッチ音楽院に入学してレッスンも始まりました。モスクワ音楽院の提携校ということで、ロシアをはじめ旧ソ連の国々から優秀な先生たちが来ていました。いろんな言葉が飛び交ってましたが、英語でなんとか通じたんですよ。その後、ザラフィアンツ先生がザグレブ大学に移ることになったので、僕も手続きをとって移動したわけです。
- ザイラー国際音楽コンクール優勝、ブラームス国際コンクール第2位など、輝かしい成績ですが、今後も他のコンクールに挑戦しますか。
- 今まで受けたどのコンクールも、自分から受けようと思って行ったんですよ。同じ作品を同じように演奏しても、コンクールによって評価が全然違うのが興味深くて。まだ、具体的にどのコンクールを受けるかは決めていませんが、受けたいとは思っています。僕はザラフィアンツ先生の指導の下で音楽の構築と音色を磨いてきたので、いつかはそれが生かせるコンクールに挑戦したいと思います。
クロアチアとは深くつながっていたい
- 名手として知られるザラフィアンツさんは、どんな先生なのでしょうか。
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もちろん音楽的なアドヴァイスは毎回のレッスンでたくさんいただきました。でも、これは悪口ではないのですが、弾けない子の気持ちのわからない人。先生自身は神童と呼ばれ、頭の柔らかい子供の頃からテクニックを完成されていたので、大きくなってからピアノを始めて弾けないということを経験されてないんですね。テクニックが未熟な僕は、最初の2年くらいは大変でした。チェルニーの40番に戻ってテクニックを洗い直し、必死で練習しました。3年目に入ったくらいから、やっと余裕も出てきて、先生のダイナミックな音楽作りの方法が学べるようになりました。音楽的な共感もできるようになり、今もとてもいい関係になっています。
- リサイタルではクロアチアの作曲家の作品を積極的に取り上げていますね。
- 大学の授業などで触れる機会があり、すばらしい作品がたくさんあることも知り、好きになりました。リサイタルで取り上げるだけでなく、作品の発掘や研究もしていきたいと思っています。
- 2007年に大阪と横浜で日本デビューのリサイタルを開きましたね。
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留学する時に、5年という期限を自分で作ったんです。アップライトに続き、高校の時にはグランド・ピアノを買ってくれた祖母が、留学後間もなく亡くなったこともあり、期限をつけて勉強して成果を上げることで祖母への恩返しをしたいという思いもありました。リサイタルの準備は大変で強行突破という感じでしたが、いろんな人たちの協力のお陰もあって、確かな手応えを感じることができました。ステージでの集中、お客さまとのコミュニケーションなど、得ることが多かったんです。
- 今後はクロアチアの作品のほかに、どんな作品をレパートリーにしようと考えていますか。
- その時に弾きたいと思った作品を弾いていく、というのでは答えになりませんね(笑)。今のところは偏りなく、いろんなレパートリーを弾きたいと思っています。
- 演奏活動だけでなく、後進の指導にも興味はありますか。
- 機会があれば教えたいです。ザラフィアンツ先生とは違って弾けない子の気持ちがわかるので(笑)、そういう方向性で。なぜ弾けないのかを一緒に考えたいですね。僕は留学して一からピアノをやり直したことで、テクニックを開発し身につけ、改善していくことを冷静に、客観的に考えるようになりました。だからテクニックのことは言葉で説明できると思います。まだ先のことだと思いますが、生徒の数を少なくして、それぞれの面倒をとことん見てあげて、プロのピアニストを育ててみたいとも思っています。
安達 朋博

1983年、京都府生まれ。8歳よりピアノを始める。京都府立網野高校卒業後、単身クロアチアに渡り、イーノ・ミルコヴィッチ音楽院(モスクワ音学院提携校)を経て、2007年クロアチア国立ザグレブ大学音楽部ピアノ科卒業。ピアノをエフゲニー・ザラフィアンツに、室内楽をピエール・イヴ・アルトーに師事。在学中からザイラー国際音楽コンクール優勝をはじめ、ブラームス国際音楽コンクール第2位などヨーロッパの国際コンクールで優秀な成績をおさめる。またクロアチアやドイツを中心に演奏活動を行い、高い評価を受けている。日本では2007年に大阪いずみホールでデビューし、ライヴ収録のCDもリリースされた。その後、ソロだけでなく室内楽でも活躍している。クロアチアの作曲家の作品を積極的に取り上げ、日本初演も数多い。